世界
歓迎という技術
ヴェネツィアからバルセロナまで、「来てほしい」と「そこに住みたい」のあいだで

世界の観光都市で、来訪者に線を引く動きが静かに広がっている。歓迎は当たり前の美徳だと思われてきたが、暮らしとどう両立させるかという、もっと地味な問いに変わりつつある。
ヴェネツィアの狭い路地を歩いたことがある人なら、休日の朝、人の波に押されるようにして橋を渡った記憶があるかもしれない。あの街は2024年、日帰り観光客から入域料を徴収する試みを始めた。数ユーロという額そのものより、「観光客を数える」という発想の転換に意味がある。これまで観光は無条件に歓迎すべきものだった。今は、管理し、時には制限すべき対象として扱われ始めている。
同じ頃、バルセロナ市は市内の民泊許可を数年かけて段階的に廃止する方針を打ち出した。住民が「自分の街に住めなくなる」という声を上げたことが背景にある。家賃の上昇、地元商店の観光客向け業態への置き換わり、夜間の騒音——これらは統計だけでは伝わらない、生活の手触りの変化だ。アムステルダムでも新規ホテルの建設が制限され、クルーズ船の寄港数を減らす議論が続いている。数字の正確さについては報道によって幅があり、今後の制度変更もありうるため、ここでは大きな方向性として捉えておきたい。
興味深いのは、これが「観光反対」という単純な話ではないという点だ。観光は多くの都市にとって、依然として主要な収入源であり、雇用を支える産業でもある。バルセロナの飲食店主にとって、規制はそのまま売上の減少を意味しかねない。ヴェネツィアの土産物店も同様だ。住民の生活権と、観光業に生計を委ねる人々の利害は、必ずしも一致しない。歓迎するかしないかではなく、誰にとっての、どんな歓迎かが問われている。
歴史を振り返ると、観光そのものが比較的新しい現象であることに気づく。18世紀のグランドツアーは、一部の富裕な若者が教養を積むための旅だった。それが20世紀に鉄道と航空機によって大衆化し、21世紀にはLCCと民泊仲介サービスがさらに敷居を下げた。ある街を訪れることが、かつては特別な経験だったのが、今は「行けて当然」のものになった。この変化の速さに、都市の受け皿となるインフラや住民感情が追いついていない、というのが今起きていることの一つの説明だろう。
もう一つ考えたいのは、「歓迎」という言葉そのものの中身だ。観光客を迎え入れることは、長らく開かれた社会の証とされてきた。閉ざされた街より、開かれた街のほうが豊かだ、という直感は今も間違っていないと思う。ただ、開かれているということと、無制限であるということは、同じではない。図書館が誰にでも開かれていながら、静かにするという最低限のルールを求めるのと、構造としては近いのかもしれない。
答えを急ぐ必要はない。ヴェネツィアやバルセロナの試みが正解かどうかは、まだ誰にも分からない。数年後に制度が撤回される可能性もあれば、他の都市に広がる可能性もある。ただ、旅する側としてできることは一つある。自分がその街の「歓迎」をどれだけ消費しているのか、たまに立ち止まって考えてみることだ。次にどこかの街を訪れるとき、その街の暮らしの速度に、自分の足取りを少し合わせてみる。それだけで、歓迎という関係は、少し違って見えてくるかもしれない。
よくある質問
- オーバーツーリズムとは何ですか
- 観光客の急増によって、住民の生活環境や文化的景観、インフラに負荷がかかる状態を指す言葉です。明確な基準があるわけではなく、都市ごとに現れ方が異なります。
- こうした規制は観光客を減らすことが目的なのですか
- 都市によって狙いは異なり、収入源の確保、住民の生活環境の保護、インフラ負荷の分散などが混在しています。単純に観光客を締め出す目的だけとは言い切れません。
ABC編集部
編集部




